浮浪児とは、親や保護者がなく一定の住居も持たずにさまよい歩く子どものことを指します。
太平洋戦争の末期から敗戦後の日本には、都市部を中心に何万人もの浮浪児がいました。
『浮浪児1945-戦争が生んだ子供たち』石井光太著は、東京大空襲などで親を亡くして孤児となった少年、少女がどう生きたかを検証したノンフィクションです。
2018年8月15日は73回目の終戦記念日、戦争を知る方は年々少なくなっていますが、胸にずしりとくる1冊です。
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東京大空襲
私は10年くらい前、地元の児童養護施設で「この施設は大正時代から親のない子どもを救済してきて、人数が増えたのは東京の浮浪児を引き受けてからです」と聞きました。
そのときはポカンとしていたのです。
東北の片田舎へ、東京から被災者となった子どもが大勢、連れられてきた。
こんな片田舎にどうして?
その疑問は『浮浪児1945-戦争が生んだ子供たち』を読んで、ようやく解くことができました。
まずは、東京大空襲について、おさらいしましょう。
無差別攻撃
1945年3月10日の未明、刺すような寒さの風が吹き荒れる夜に、アメリの爆撃機B29が300機以上もの大編隊で東京の下町を焼き尽くしました。
B29一機につき、焼夷弾1520発を搭載し荒川、深川、本所、浅草、日本橋などへ雨のように降らせ、火災旋風が起きたそうです。
逃げ惑う人々は火の海と火の柱に避難することができず、家族は散りじりになり、火災の犠牲者となりました。
投下した爆弾は38万発、1700トン。火炎は上空600メートルまで吹き上がり、2時間半の間に100万人に及ぶ人々が罹災。
約10万人が命を落とすという大惨事。
38万発ですから、とてつもない数の爆弾が炸裂したことになります。紅蓮の炎が家も人々も焼き尽くしました。
孤児たちと食料不足
当時の厚生省の調べでは太平洋戦争による孤児は全国で推定約12万人、14歳以下の小中学生がその日から自分の力だけで生きて行かなくてはなりません。
日本でもっとも浮浪児が集まったのが、台東区の上野駅。
駅には地下道があり、そこにいれば凍死の危険を避けることができたからです。
戦後の食糧難
親を亡くした子、あるいは親や親類とはぐれてしまって家が焼けてしまった子は、自ら食べ物を探すほかありません。
闇市の食べ物屋さんから残り物を分けてもらったり、靴磨きやかっぱいをしたり。
生きるためには何でもしなければ、明日の命さえ危うい。
上野の地下道には衰弱して死ぬ人が毎日、何人もいました。
弱肉強食のなかで、小さい子供ほど生き延びることが困難。
窃盗、恐喝、詐欺、たかりなどを行う大人の手先になるしか食べるものを得られない子供もいます。
子供たちにすると、愚連隊やテキ屋の人たちは親切に思えたそうです。
戦争で親を亡くしたため、親代わりの大人が必要だったのでしょう。
孤児院
人さらいが横行し、人手不足の漁村や農村へ売買される子供もありました。
ご飯は与えられるでしょうが、こき使われ、命がけの危険な仕事を強制されるわけです。
そんななか、「浮浪児対策委員会」を当時の厚生省が設置して、上野の浄化作戦が始まり、「刈り込み」が実施されます。
浮浪児は板橋養育院に集められ、孤児院や感化院、少年院へ送られました。
施設で保護されても食べ物は乏しく環境も劣悪なため、脱走する者が相次ぎます。
愛児の家
木造の一軒家に住んでいた主婦の石綿さちよは、終戦時に48歳。3人の娘と暮らす家にある日、垢だらけの孤児を連れ帰りました。
上野で放浪している子供たちを放って置くことができなかったのです。
ひとりふたりと引き取る子供が増えて、数年後に200名を超すほど。
人数が増えると、食べさせるだけでも大変です。
石綿家は、特別に裕福な家でありません。農村へ買い出しに出かけなければ米が手に入らない時代でした。
さらには家に招き入れた姉弟に、大金を持ち逃げされたことも。
石綿さたよは、寄付を受けることがありましたが、私財を投げ打ち、孤児の救済に尽くします。
お金がなくて、愛児の家ではジャガイモの皮まで料理し、食べたことも。
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日本を支えた人たち
ストリードチルドレンとして上野駅でたむろし、愛児の家や全国の児童養護施設で育った方たちは、大人になっても苦労の連続でした。
なかには成功した方もいますが、施設育ちのことは家族にさえ明かさなかった人もいるそうです。
あまりに辛かったのでしょう。
『浮浪児1945-戦争が生んだ子どもたち』
生き延びた浮浪児たちは成長して大人となると、日本の高度成長を支えました。
しかし、繁栄の影に隠れ浮浪児について調査は、ほとんどされてこなかったそうです。
農村や田舎の施設に入所させたのは、当時は農村のほうが米があったこと、人手不足のため農奴のように働かせる目的もあったのでしょう。
おむすび一つが手に入らずに飢えと寒さで、命を落とした子どもたちがいたこと、70年ほどの前の焼け野原となった日本を思うと、戦争のない時代に生まれて暮らせたことを、有り難く感じます。
石井光太氏は、1977年生まれで、国内外の貧困や災害、戦争等をテーマに執筆しています。
私が石井光太さんの本を最初に読んだのは『絶対貧困』でした。
衝撃を受けました。
インドで物乞いにするために、子供の手足を切断することに体の震えがとまりませんでしたが、残念なことにインドだけの話ではないようです。
中国でも人さらいによる誘拐が横行しているとのことをニュースで見ましたから。
前に紹介した石井光太氏の『 鬼畜の家』は、虐待事件を検証した1冊です。我が子を殴り、食事を与えず衰弱死させた親たちの祖父母にも言及。
事件は一過性の偶発的なものではなく、何世代も前から根深い貧困や問題を抱えていたことを明かしています。
目黒区のアパートで5歳だった結愛ちゃんが、継父の激しい虐待により死亡したことは忘れられない事件ですが、いまも助けを求めたいけれど、声を上げられない子どもさんはいるかもしれません。
まとめ
『浮浪児1945-戦争が生んだ子どもたち」は、空襲により親や家をなくした子どもたちが戦後をどんなふうに生き延びたかを描いています。
原爆もそうですが、東京大空襲も米軍の攻撃の凄まじさがいかに非人間的であったかを改めて考えさせられました。
8月の終戦記念日を前に、戦争と平和を考えたい方へおすすめの本です。
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