作家で禅宗の僧侶だった瀬戸内寂聴さんが、99歳で大往生されました。
100年を気丈に生きられ、執筆という脳トレの賜物でしょうか。
私は瀬戸内晴美さんのときから、作品を読んできたので、励まされた言葉を紹介します。
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瀬戸内寂聴
四国・徳島市の大きな仏壇店の次女として、1922年(大正11)に生まれた瀬戸内寂聴さんです。
作家デビューした当初は、子宮作家と呼ばれて文壇から無視されました。
「花芯」が、夫ある身でありながら不倫する内容だったからでしょうか。
現在のレディコミックスに比べれば、さほど刺激的ではないのですが、昭和30年代のころは女性の貞操について厳しかったにちがいありません。
青鞜の編集者だった伊藤野枝が、アナーキスト大杉栄の妻となって甘粕事件に巻き込まれ、殺害され井戸に投げ込まれるまでを描いた代表作「美は乱調にあり」。
寂聴さんは短編の名手でしたし、源氏物語の現代語訳もこなして、徹夜で執筆することが多かったそうです。
生きることば
『この世に無駄ないのちは、ひとつもないのです。
あなたが元気にそこに居てくださるだけで、世の中は明るくなるのです。がんばって』89ページ
本を大量に処分して、手元にあるのはたった1冊。
2001年発刊された「生きることば あなたへ」です。
どう生きたらよいものか、途方に暮れたときこの本のページをよく開きました。
『自分が孤独だと感じたことのない人は、人を愛せない』67ページ
この本を読むと、みんな孤独で自分だけが寂しいのではないと、心に灯りがともったような気がしました。
寂聴さんは、21歳で大学の教員と結婚し、北京で暮します。
敗戦となり、乳飲み子を抱えて、嫁入り道具の和服を売りながら食べるものを買いました。
帰国してから夫の教え子と駆け落ちをして、子どもと離ればなれ。
幼い娘にすまないことをしたと、悔いる日々を送ります。
お坊さんになってから、岩手県の天台寺で青空説法が評判に。
1973年に平泉町の中尊寺で得度し、87年からは二戸市の天台寺で住職、名誉住職を務め、「青空説法」には全国からファンが押し寄せた。東日本大震災後には県内の被災地を巡り慰問活動に力を入れた。
寂聴さんのお話を聞きに、全国から悩める人々が岩手の山深いお寺に集合しました。
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女の業を描く
寂聴さんは瀬戸内晴美だったとき、妻子がある井上光晴と長年にわたり恋愛関係になりました。
世間から非難され、苦しく辛くても、別れることが出来ない。
そんな男女のことを下敷きに、小説を書き続けます。
泥沼の愛憎は、一般人にはなかなか文章化できませんね。
理由は昇華させなければ、作品として読者に訴える文章にならないから。
瀬戸内寂聴 「笑って生ききる」日めくりカレンダー (開発品)
このカレンダーを、96歳の姑が好きで部屋に飾っています。
黄金色の袈裟を着て、眺めているだけで活力が沸く!
寂聴さんの笑顔が素敵です。
本当に愛したのなら、見返りを求めない。
たとえば「育ててやったのだから、老後の面倒をみろ」と言う親は、子どもを愛していなかった証拠ではないでしょうか。
まとめ
細木数子さんが亡くなった知らせに続いて、瀬戸内寂聴さんの訃報を知りました。
戦中戦後を生き抜いた方々は、鬼籍に入られますね。
寂聴さんの作品はたいへん多くて、図書館に全集があると思います。
秋の夜長にしみじみと読みたい。
「あなたがそこにいるだけで、世の中は明るくなる」
救われる言葉ですね!
ご冥福をお祈り申し上げます。
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