夫を生んだ義理の母は、大正15年(1926)生まれです。
腰は曲がっていますが、耳が良く聞こえて読書が好き。
認知機能の衰えを感じさせません。
先日、夫が選んだ赤いカーネーションとお菓子を持って、実家を訪問。
私が感じた、元気で長生きのコツをお伝えします。
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欲ばらないで暮らす
カーネーションとお菓子を地元のお店で買って、すぐ夫の実家に向かいました。
画像は、車のなかで撮影。
95歳の義理の母は、長男一家と同居をしています。
私の夫は3男のため、早くに実家を出ました。
義理の母は7年ほど前に家を建て替えた際、大幅に持ち物を減らし、80代後半で生前整理。
着物やスカーフにギフトの箱に入った食器などを嫁達にあげて、身の回りをすっきり。
それは、甥っ子夫婦が「スタイリッシュな家づくりがしたいから、昭和のモノは持ち込まないでほしい」という要望があったから。
夫の実家に関しては、片づけの心配が全くありません。
もともと必要以上にため込まない人。
義理の母は第二次世界大戦のとき青春期を迎え、モノがない時代を経験。
そして昭和22年に、復員した義理の父親と結婚したのです。
「嫁に来たときは日本がまだ物不足だったから、親は嫁入り道具には苦労したのさ」
実は、義理の母の生まれた家は田んぼが多く、富裕な農家。
一方、嫁いだ家は貧農でした。
そのころの日本は、若い男性が戦死したため女性が余った時代。
日本軍の軍人や軍属の死者は230万人、結婚適齢期の男性1人にトラック一杯の花嫁候補という資料も。
焼け野原の東京は、親を亡くした孤児が上野駅などで寒さをしのいだのです。
義理の母は、倹約を重ねて4人の子供達を育てました。
農家だけでは食べていけないため、義理の父親は工場へ勤めにも出ています、76歳まで。
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ムリをしない
義理の母は若い頃、あまりに経済的に厳しく、土方仕事に出たそうです。
村の奥さん方が、けっこう土木工事の手伝いに従事していたから、自分もやろうと思ったのでしょう。
「きつくてきつくて、とても出来なかった。3日でやめた」
義理の母は、身長が148センチ、体重が40キロくらいで小柄。
力仕事で体を壊してはいけないから、外で働くことを諦めました。
当時は、女性の社会進出が進まず、看護師や美容師が稼げる仕事。
あとは、田舎では土木工事くらいだったのでしょう。
義理の母は、農作業と家事、姑の介護という務めを果たします。
ディサービス
80代後半から、週に1度のディサービスに通う義理の母。
同じ年代の女性が多いので、おしゃべりと体操が楽しみとのこと。
ランチもおいしいと満足。
義理の母は、旅行もあまりしたことがありません。
20年前に亡くなった舅と、お寺の旅行に参加したくらいでしょうか。
京都の西本願寺や紀州を見て回ったそうです。
とても慎ましい暮らしをしてきたのです。
義理の母へ、抹茶いりのバームクーヘンを贈りました。
新茶の季節です。
怒らないで穏やかに暮らす
私は義理の母が感情的になって大声で怒鳴ったり、人の悪口を言ったりするのを見たことがありません。
「おれは、親が夫婦げんかをするのを見たことがなかった」
それは夫の言葉です。
義理の母の口から出るのは、いたわりや思いやりの言葉なのです。
カレー鍋のお玉でケンカするわが家とは大違い(@@;)
私も義理の母を見習い、不満やグチを言わないようにしたい。
ゆとりある暮らし
義理の父親は20年前に79歳で亡くなりましたが、苦労人でした。
というのは、自分の父が病弱のため小学校を終えるや、丁稚奉公。
復員して帰国後は工場勤めの傍ら、農業経営。
働きづめだったのです。
しかし、長く勤めたことで厚生年金の期間が長く、いま義理の母は年金を少し多くもらっているとのこと。
経済的なゆとりが、心の余裕につながるのかもしれませんね。
まとめ
カーネーションの鉢植えとバームクーヘンを、義理の母は喜んでくれました。
私の実母は脳こうそくを患い、70代後半からグループホームで暮らしているので、コロナ禍のいま面会はできません。
実母は勤務先でのストレスがあったのか、59歳のとき1回目の脳こうそくになりました。
無理しないで身の丈で暮らすと、老後もおだやかに自宅で生活できるのかなと義理の母を見て感じたので、母の日にちなみ、お伝えしました。
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